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朱熹の思想体系

朱熹の思想体系

◎朱熹思想の魅力はここにある!朱熹思想の神髄に迫る堅実な研究の刊行!

著者 土田 健次郎
ジャンル 中国思想・哲学
中国思想・哲学 > 宋元
中国思想・哲学 > 明清
出版年月日 2019/12/24
ISBN 9784762966521
判型・ページ数 A5・720ページ
定価 17,600円(本体16,000円+税)
在庫 品切れ・重版未定
 

目次

本篇

第一章 学の目的
      聖人への到達
      聖人到達可能の根拠
      本来性と現実性
      天とは何か
      生生の道徳としての仁
      聖人としての孔子

第二章 世界の構造――気とは何か
      有の思想
      気とは何か
      「気=物質」説
      気化と形化
      作用・運動としての気
      気と質
      感応と消長
      陰陽と五行
      気の生生

第三章 世界の構造――理とは何か
      理の個別性
      実である理
      太極
      性は運動するか
      理一分殊
      分殊としての理の内容
      人物性同異論
      分殊の理と善悪
      機能と理
      理気二元論
      理気先後の論
      鬼神
      卜筮
      祭祀
      死の問題

第四章 心の分析
      「心」とは何か
      「心は性惰を統ぶ」
      感応と心
      「性」とは何か
      心と性
      未発と性
      心に関する二項対立――本然の性・気質の性・道心・人心

第五章 学問論――格物
      工夫論の意味
      工夫の両輪
      「所以然の故」と「所当然の則」
      格物の順序
      講学と自得
      経書解釈の方法
      格物と経学
      体認
      「知」と「行」
      王守仁知行合一論との対比
      豁然貫通
      格物と心の理

第六章 修養論――居敬
      敬の典拠
      敬の定義
      鏡の比喩
      未発と已発の関係
      道理の思量
      「主宰」の意味
      「観心」
      未発と已発の修養
      敬と礼
      敬と小学
      礼の意味
      墓祭と習俗
      気質変化

第七章 士大夫と社会
      士大夫と平天下
      科挙
      士大夫と民
      正統論と道統論
      帝王学としての側面
      華夷意識
      理と社会的価値
      女性再婚否定論
      関係性と公
      公と私
      理の社会的機能


附篇一 朱熹と仏教

第一章 朱熹と禅
      宋明儒学と禅
      朱熹の禅体験
      朱熹の公案観
      観心批判と仏教
      世俗的価値めぐって

第二章 朱熹と華厳教学
      朱子学と華厳教学の関係論
      「理性」
      「法界」
      禅と華厳経学と朱子学
      陳瓘の場合
      朱子学と華厳教学の基本的関係


附篇二 朱熹の経学と文

第一章『論語集注』の性格
      四書の重要性
      『論語集注』成立の経緯
      『論語集注』の引用
      程子の語の引用
      引用の混乱
      朱熹の引用姿勢
      『論語集注』の立場

第二章 朱熹と文と語
      朱熹の文学嗜好の性格
      朱熹と古文
      道と文――儒者と文人
      口語語録の意義
      道学における口語の文語化

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内容説明

【「序」より】(抜粋)

 本書は、朱熹の思想体系全般の論述を試みたものである。…朱熹の理論構築を検討する時に必要なのは、朱熹が自己の主張の説得力をどこに持たせようとしたかを考えることである。時には論理そのものの力により、時には経書の権威を借り、時には当時の通念に頼る。また朱熹の表現のしかたも問題になる。「Aは即ちB」と書いてあっても、文字通りAとBが合同であるという意味から、Aの一部がB、逆にAの一部がB、という意味まで多様である。ただこれらのことを妥協とのみ見なすのは、我々の驕りである。我々とても時に朱熹以上に理論以外の要素を自己の論述に紛れ込ませているではないか。むしろ考えるべきなのは、自他を納得させるには、我々が雑多な夾雑物と見える要素が必要だったということであり、我々はそのような形を取る思想表現の姿というものを正確に把握しなければならないことである。このような要素をも確実に掬い上げてこそ朱熹の思想研究は充実したものになるはずである。
 朱熹の思想体系を描くには、彼の膨大な文献から、学説の柱として重ねて強調されている諸主張を摘出し、それらの相互関係を解明することが有効であろう。わずかの例に固執し、それにはずれる他の多くの論述を無理に否定するような試みに紙数を割くことは徒労である。また片言隻語から「哲学的に」引伸し、朱熹があずかり知らぬ地平にまで行ってしまうのも同様である。更に後に「字義」の類が流布した影響もあろうが、理、気、性、惰、という語に過度にこだわるため、朱熹がそれらを駆使して表現したかった当のものを逃すことも往々にして見受けられる。朱熹はこれらの語を規定するために思想を組み立てたのではなく、これらの語の組み合わせから思想を浮かび上がらせようとしたのであり、それこそを把握しなければならない。朱熹は、性や心は言葉では説明しきれないということを明言することがある。その意味は重い。
 また朱熹が駆使する用語は、以前から使用されてきた伝統的なものが中心であるがゆえに、往々にして複数の意味が含み込まれていて、その用語が他のいかなる用語との対比されるかで意味の力点が変化する場合も少なからずある。それゆえ各用語は常にどのような状況で使用されているかを考慮しながらその意味摑まねばならず、具体的作業は本書の随処に行っている。
 ともかくも朱熹思想の研究は、資料全体からその骨格を把握し、それで各用例をどこまで説明できるかを検証し、またそこから先に把握した骨格の妥当性を検証するといったフィードバックを繰り返さなければならないのである。
 更に朱熹の思想を扱う場合には、一つ大きな問題がある。それはこの思想が聖人を目指して修養する人間にとって意味を持つ思想であることである。たとえば朱熹が湖南学から脱却し一応の定説を四十歳で確立したのは、湖南学の説く已発中心の修養を実修していてその効果に疑問を持ったということが大きかった。もちろんそれに対する理論付けも行っているのだが、実修体験がなくてはその理論の持つ説得力も半減する。このような体得を前提とした思想をどのように扱うのかという問題もつきまとってくる。また後世の朱子学の問題設定は、あくまでもそれがなされた時代のものであって、必ずしも朱熹自身の問題意識を反映していないことにも注意すべきである。本書ではこの件も随所に論じた。……筆者は今までそれなりの数の朱熹についての論文を書いてきた。……本書はこれらを解体し再構成し、さらに新たにかなりの部分を補筆して成った。内容的には既発表の論文がもとになっているとはいえ、実際には書き下ろしといってよいものである。単なる論文集ではないつもりなので、関心を持って下さった読者は、通読のうえ筆者が描いた朱熹の思想体系を吟味していただければ幸いである。



The Philosophical System of Zhu Xi 朱熹

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