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中世南奥羽の地域諸相

中世南奥羽の地域諸相

◎南奥羽諸地域の多様な実態を、同時代の歴史史料のみならず時代を超越した諸史料から描き出す!

著者 岡田 清一
ジャンル 日本史
日本史 > 中世
出版年月日 2019/11/25
ISBN 9784762942297
判型・ページ数 A5・458ページ
定価 11,000円(本体10,000円+税)
在庫 在庫あり
 

目次


まえがき  
 1 震災への歴史学的アプローチ   
 2 本書の構成と概要  
   

第一編 南奥の地域社会

 第一章 石川氏と石川庄
  第一節 石川庄と石川氏の土着    
  第二節 鎌倉時代の石川氏  
  第三節 鎌倉北条氏と石川氏     
  附論1 岩沼板橋家文書について
       1「岩沼板橋家文書」の確認 
       2「岩沼板橋家文書」の紹介 
       3「板橋家譜」に記載される文書

第二章 中世標葉氏の基礎研究
  第一節 海道平氏と標葉氏      
  第二節 標葉郡・標葉氏と和田(関沢)氏・相馬氏
  第三節 標葉氏の内紛と得宗専制  
  第四節 南北朝期の動乱と標葉氏  
  第五節 室町期の標葉氏

 第三章 陸奥の武石・亘理氏について
  第一節 武石氏と亘理郡       
  第二節 鎌倉幕府・鎌倉北条氏と武石氏
  第三節 南北朝期の武石・亘理氏   
  第四節 亘理氏と十文字氏
  第五節 亘理氏と伊達氏


第二編 中・近世移行期の相馬氏と相双社会

 第四章 相馬義胤の発給文書と花押
  第一節 義胤発給文書の年代比定   
  第二節 花押の変遷とその背景

第五章 中世南奥の海運拠点と地域権力
  第一節 近世資料に見る相馬領内の「御蔵」と港   
  第二節 磯部の「古館」と佐藤氏
  第三節 「村上館」と相馬義胤           
  第四節 「村上館」から中村城へ

 第六章 戦国武将相馬義胤の転換点
  第一節 本拠移転の経過   
  第二節 豊臣政権と相馬義胤   
  第三節 中村城移転の背景

 第七章 中・近世移行期における家督の継承と「二屋形」制
  第一節 義胤の家督相続と隠居盛胤の実態   
  第二節 相馬家中の和戦二派
  第三節 利胤の家督相続と義胤の泉田「隠居」 
  第四節 泉田堡・幾世橋御殿の景観復原
  むすびにかえて―「二屋形」制とその終焉―

 第八章 慶長奥州地震と相馬中村藩領の復興
  第一節 慶長奥州地震と津波被災       
  第二節 中村および中村城の被災状況
  第三節 中村城下の整備と藩領の復興     
  復興に向けて
 

第三編 南出羽の地域社会

 第九章 小田島庄と小田島氏
  第一節 小田島庄の成立と小田島氏      
  第二節 中条系苅田氏から北条系苅田氏へ
  第三節 小田島庄と鎌倉北条氏        
  第四節 小田島庄と「東根」
  むすびにかえて―その後の小田島氏・東根氏―

 第一〇章 戦国期の鮎貝氏と荒砥氏・荒砥城
  第一節 荒砥氏と鮎貝氏の出自        
  第二節 伊達氏麾下の鮎貝氏と荒砥氏
  第三節 荒砥城の景観復原 
         
あとがき―続々・団塊の世代の歴史体験―   
初出稿一覧
索 引

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内容説明

【本書より】(抜粋)

本書は南東北の太平洋岸(南奥浜通り)が中心となるが、さらに山形県(南出羽)の事例を具体的に描くことによって、身近な「ふるさと」を追求するものでもある。
 本書の構成とそれぞれの概要を述べておきたい。被災地における歴史像を中心に大きく三編に分けた。まず、相双地域に隣接する諸論を「南奥の地域社会」としてまとめ、三編の論考と附論一編を配した。
 第一章は、石川庄を支配した石川氏の平安末・鎌倉時代史である。清和源氏石川氏について、平泉柳之御所跡遺跡から出土した折敷墨書、さらに秋田藩士北酒出忠房の「源氏系図」などから平泉藤原氏との重層的な婚姻関係を確認し、一二世紀前半、石川氏の祖源有光が石川地域に土着し、中院雅実ないしその子雅定を介して立荘されたと推定した。
 第二章は、「地域調査」を課題とする筆者担当ゼミが、平成一五~一六年度に浪江町を調査した際、発刊したゼミ報告書に「中世標葉氏の基礎的研究」と題して掲載したものが土台となっている。(略)南北朝期、従来は相馬家文書等から南朝方として描かれることが多かった標葉氏の、北朝方として行動する実態の一部を追求できたと思う。同時に、近世史料からも中世を追求することができることを指摘した。
 第三章は、千葉介常胤の三子胤盛に始まる武石氏について、亘理郡移住時期や北条氏被官化の実態を詳述し、さらに南北朝期から戦国期に至る時期の亘理氏の動向を、涌谷伊達家文書をも利用しながら整理したものである。
 第二編は、戦国期以降、近世移行期の相馬氏、とくに相馬義胤とその時代に関する論考を収録した。
 第四章は、移行期の相馬氏当主でもある義胤の発給文書について、発給年に推定を加えて花押の変化を読み取ることができた。
 第五章は、近年の太平洋海運史の進展に触発されてまとめたもの。相馬氏が、慶長元年(一五九六)、小高城から村上館(いずれも南相馬市小高区)への移転計画を経て、牛越城(南相馬市原町区)に移り、慶長一六年(一六一一)には中村城(相馬市)に移る背景に、海上交通の要衝性を位置づけ、江戸期の史料や近代の字限図・地籍図を利用して、村上、牛越城移転に関連する泉、さらに中村の地理的環境を検討して、戦国期の海上交通の実態に迫ろうとしたものである。
 第六章は、第五章で詳述した本拠移転が、流通拠点の把握という経済上の課題だけでなかったことを検討した。すなわち、相馬一族は、鎌倉期以来、変わらずに本領を支配し続けた結果、一族を中心とする有力「家臣」がそれぞれの所領を強力に支配することになった。それは相対的に、相馬本家の支配を不安定化させることになった。
 第七章は、第四章で検討を加えた相馬盛胤・義胤父子連署状に着目し、いわゆる「家督」相続以前に領主権力を行使している実態を検討した。(略)本章では、家督相続は徐々に、段階的に行われることを想定し、前家督と新家督が並立する体制を、本城様・新城様と呼んだ後北条氏の事例から「二屋形」制と仮称した。
 第八章では、第五・六章で触れた相馬中村藩の本拠移転、とくに中村への移転は、慶長一六年一〇月のいわゆる「慶長奥州地震」後の一二月に行われた。その状況を、セバスチャン・ビスカイノの報告書から追求するとともに、その後の中村藩領内の復興活動を類推し、領内の石高の変遷から地域ごとの特徴を確認した。
 第三編は、南出羽の二例をまとめた。
 第九章では、まず小田島庄(山形県東根市)の成立時期について、『後二条師通記』の記述に対する通説を批判し、一一世紀前半まで遡ること、その後の経緯について不明な点があるものの、源頼朝の「奥入」(文治の奥羽合戦)後、中条成尋あるいはその子義季が苅田郡・和賀郡などとともに給与され、さらに義春が小田島庄を相続したことを指摘した。さらに、(略)野津本「北条系図」や「小野氏系図」、鬼柳文書に含まれる系図などから、一三世紀半ば、苅田郡の地頭職は名越流北条氏に伝領された過程を詳述した。
 第一〇章では、置賜郡北部に位置する鮎貝・荒砥地区(山形県白鷹町)の地理的特性の相違に留意しつつ、鎌倉時代、幕府の法曹官僚長井氏による支配、その後の伊達氏による支配の実態について考察し、現地の村落領主ともいうべき小領主層の存在を指摘した。(略)次に、明治初年の字限図や地籍図から、荒砥城および周辺地域を鳥瞰した。その結果、城館(実城)を囲繞するように楯廻・古城廻(被官屋敷)や~町(城下集落)という地名が現存し、三重構造になっていることが確認できた。しかも、それらは当該期の史料『晴宗公采地下賜録』に記載される「館廻屋敷」や「居屋敷廻」、さらに「町屋敷」に対応することを指摘し、それは字限図や地籍図に記載される地名が歴史研究へ利用できることでもあると再認識できた。
 以上、本書の構成と内容を概述した。すなわち、本書は南奥羽諸地域の多様な実態を、同時代の歴史史料のみならず、発掘の成果、近世・近代の編纂史書、字限図や地籍図に記載される地名などを利活用して描くことを意図したものである。そこに利用される時代を超越した文献史料や出土遺物を含めた遺跡、さらに地名や伝承など、全てが「ふるさと」を構成するものであり、その総体としての地域諸相・景観そのものが「ふるさと」といえる。何ものにも替えがたい「ふるさと」、自分とはなにかを問うとき、共通の民俗芸能や祭礼を通じて確信する帰属意識の根源ともなる「ふるさと」の豊かな多様性を導き出せたであろうか。

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