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民族主義と現実主義の狭間で  これから出る本

――辺彊問題を中心とする中国国民政府の対ソ連外交 1943~1947年――

民族主義と現実主義の狭間で

◎膨大な史料から中国国民政府の葛藤を明らかにし、斯界に新たな視点をもたらす

著者 吉田 豊子
ジャンル 東洋史(アジア)
東洋史(アジア) > 近現代
出版年月日 2026/04/15
ISBN 9784762967665
判型・ページ数 A5・432ページ
定価 13,200円(本体12,000円+税)
在庫 未刊・予約受付中
 

目次

序文(石井明)/まえがき(奥村哲)
序 章
第1章 「内憂外患」下の対ソ外交 
——アルタイ事件からウォレス使節団の訪中前後まで——(1944年3~7月)
一 前史 二 アルタイ事件の勃発
三 ソ連の外交攻勢 四 ウォレス使節団の訪中
五 盛世才の更迭
第2章 ヤルタ会談前夜における新疆を通した対ソ外交の試み(1944〜1945年)
一 ウォレスの訪中と対ソ外交方針の検討
二 「伊寧事件」前夜の中ソ関係を緩和する措置
三 「伊寧事件」後の新疆・ソ連貿易経済合作交渉
第3章 ヤルタ「密約」への対応と外モンゴル問題
一 ソ連の態度表明からヤルタ「密約」まで
二 ヤルタ「密約」の情報と妥協案の模索
三 ヤルタ「密約」をめぐる重慶・中ソ交渉(一)
四 ヤルタ「密約」をめぐる重慶・中ソ交渉(二)
五 モスクワ中ソ交渉における「中国の最大の政策決定」
第4章 中ソ友好同盟条約の談判への対応(一)——ポツダム会談前——
一 第二回会談(7月2日)          二 「中国の最大の政策決定」
三 第三回会談(7月7日)          四 第四回会談(7月9日)
五 第五回会談(7月11日)          六 第六回会談(7月12日)
第5章 中ソ友好同盟条約の談判への対応(二)——ポツダム会談後——
一 談判の前半の検討と後半への準備      二 第七回会談(8月7日)
三 第八回会談(8月10日)          四 中ソ友好同盟条約の締結
第6章 中ソ友好同盟条約の談判における外モンゴル問題への対応(一)——ポツダム会談前——
一 「高度の自治」方針の失敗
二 外モンゴルの独立を承認する戦略
三 外モンゴルの独立の承認および声明に関する議論
第7章 中ソ友好同盟条約の談判における外モンゴル問題への対応(二)——ポツダム会談後——
一 ポツダム会談期間の外モンゴル境界問題に対する中国側の態度
二 ポツダム会談後の中ソ談判における外モンゴル境界問題
第8章 中ソ友好同盟条約の談判に対するアメリカの介入
一 原爆実験を背景とする中ソ談判に対する間接的介入
二 原爆実験の成功と中ソ談判に対する直接介入という政策決定
三 ポツダム会談後における中ソ談判に対する介入
第9章 国共内戦前夜におけるモンゴル問題への対応
一 独立承認手続きをめぐる検討
二 独立承認時期の決定過程
三 国交樹立交渉をめぐる曲折
第10章 北塔山事件を契機とする内外転換期における対ソ政策——1947年半ば——
一 北塔山事件の背景 二 事件の勃発と異なる見方
三 対ソ「厳正」外交の政策決定 四 対ソ「厳正」外交の背景と意図
五 北塔山事件の「国際化」 六 東北問題の「国際化」
おわりに――蔣介石の独白
終 章
初出一覧/主要史料・参考文献/関連年表/あとがき/索引/中文目次

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内容説明

【奥村哲「まえがき」より】(抜粋)
 本書の原著者の吉田豊子は、2016年秋に発病し、苦しい闘病生活を経て、2021年6月に亡くなった。その間、居住する京都だけでなく、福岡や北九州の病院にも入院して、治療のかたわら本書の原稿の整理を続けていた。
……本書の重要なテーマの一つは中国の国民政府によるモンゴルの独立承認問題である。吉田は第3章で、「従来の研究では、中国が[抗日戦争の終結直前の]モスクワ交渉までソ連の真の意図を知らず、その結果受身的にモンゴルを手放さざるを得なかったという捉え方をしている」(94頁)と記し、その注では「ほとんどの研究がそうであるので、詳細を省く」としている。本書第1章で吉田が明らかにしたように、事実は、その前年の1944年3月に新疆とモンゴルの境界付近で起こった、アルタイ事件の経過の中で、ソ連が関与を認めてモンゴルを独立国として扱う形の国際的な声明を出したため、モンゴルの独立を承認させようとするソ連の意図を、中国の国民政府もはっきり認識した。声明のことを知り、蔣介石は「ひどく憤り悶えた」という。しかし、抗日戦争の早期終結にはソ連の参戦が必要であり、アメリカもまたソ連に宥和的であった。非常に苦しい立場に立たされた国民政府は、だからこそ、問題を極力新疆での局地的紛争として処理し(このため政府は同事件を「新疆事件」と呼び、先行研究も多くはそれに従った)、なんとかソ連との関係改善を図ろうとしたのであり(第2章)、ヤルタ会談の後には秘密協定の中身を探り、対応策を練っていたのである(第3章)。ソ連が東北に進攻し、終戦間近で行なわれた中ソのモスクワ会談の過程は、以上の事実を踏まえれば、台湾やアメリカなどで新たに公開された新史料に基づいて、全面的に捉え直されねばならない(第4〜8章)。確かに、交渉過程で決断を迫るソ連側に対して、中国側はしばしば「モンゴル問題も議題になるとは想定していなかった」と弁解しており、それが先行研究の眼も曇らせたのであるが、それらはモスクワ(宋子文・王世杰ら)と重慶(蔣介石)の間で頻繁にやりとりするために、ソ連側に弁解した表向きの発言でしかなかったのである。……吉田は台湾やアメリカで公開された膨大な檔案や、蔣介石・王世杰ら関係者の日記などを駆使して、以上の過程を論証しているが、非常に多くの引用文などからは、苦渋に満ちた政策の決定過程のみならず、「憤り悶えた」蔣介石(第1章)や、モンゴル独立承認後の世論を憂慮して重い気分でモスクワに向かう王世杰を次女が励ます(第7章)など、当時の関係者の痛切な心情までが汲み取れる。まさしく国民政府は、民族主義と現実主義の狭間で、主体的ながら苦しい模索と選択をしていかざるをえなかったのである。本書の研究史上の位置と出版の意義は、それらのことを明らかにしたことにある。

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