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汲古叢書40 唐史論攷

-氏族制と均田制-

汲古叢書40 唐史論攷

未発表論文「唐代均田制の一考察」(修士論文)・「貴族制の没落」二篇を収録した待望の論集なる

著者 池田 温
ジャンル 東洋史(アジア)
東洋史(アジア) > 魏晋隋唐
シリーズ 汲古叢書
出版年月日 2014/10/30
ISBN 9784762925399
判型・ページ数 A5・784ページ
定価 19,800円(本体18,000円+税)
在庫 在庫あり
 

目次

【内容目次】
 第一部 氏 族 制
第一章 唐代の郡望表―九・十世紀の敦煌寫本を中心として―
第二章 唐朝氏族志の一考察―いわゆる敦煌名族志殘卷をめぐって―
第三章 敦煌氾氏家傳殘卷について              
第四章 八世紀初における敦煌の氏族
第五章 8世紀中葉における敦煌のソグド人聚落(横組)    
第六章 貴族制の沒落
  第二部 均 田 制
第一章 均田制―六世紀中葉における均田制をめぐって―
第二章 唐代均田制の一考察―その施行の實情を中心として―
第三章 初唐西州土地制度管見  
第四章 初唐西州高昌縣授田簿考   
第五章 神龍三年高昌縣崇化鄕點籍樣について
第六章 唐前期西州給田制之特徴   
第七章 唐朝開元後期土地政策の一考察
第八章 唐代敦煌均田制の一考察―天寶後期敦煌縣田簿をめぐって―
  附 一 敦煌における土地税役制をめぐって―九世紀を中心として―
    二 開運二年十二月河西節度都押衙王文通牒―十世紀敦煌における土地爭いの一例―
    三 中國古代物價の一考察―天寶元年交河郡市估案斷片を中心として―
    四 盛唐物價資料をめぐって―天寶二年交河郡市估案の斷簡追加を中心に―
 解 説(大津 透)

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内容説明

【本書「解説」(大津 透〈東京大学大学院教授〉)より】(抜粋)

本書『唐史論攷』 は、戦後日本における中国隋唐史研究と敦煌吐魯番学研究を代表する池田温氏による、氏族制と均田制をテーマとして編まれた論文集である。このうち第一部第六章「貴族制の没落」および第二部第二章「唐代均田制の一考察」は、これまで未発表のもので、特に後者は、東京大学大学院人文科学研究科に提出された著者の修士論文である。

第一部氏族制では、六朝から唐初へかけて門閥貴族が力をもった社会が、隋唐の国家支配によってどのように制約が加えられ、吸収されたのかという視点から、敦煌文献を用いて氏族志の編纂や郡望表の性格を明らかにすることによって、唐代の氏族制にせまっている。

〔未発表論文〕

 第一部第六章「貴族制の没落」は、唐宋変革説の中心となる貴族政治の没落から君主独裁政治へという命題について、広い視野から叙述された概観的論文である。まず六朝門閥の実態、隋による急進的な中央集権化政策、唐初太宗による貞観氏族志、高宗による姓氏録、唐復興後の大唐姓族系録などの対氏族策を叙述し、安史乱以後の社会変動や元和姓纂、唐末五代の動乱にふれ、宋代には唐代の名族は過去の存在として貴族制の衰滅を認める。その実相として唐代の官僚制の整備、七世紀末から八世紀にかけて地方の胥吏層が武后の濫官政策で中央に進出したこと、財政・軍事など専門官僚が必要とされたことをあげ、さらに貴族の社会的声誉の衰え、経済的実力の衰退などについても詳しく述べられる。附記に記されるように、この原稿は『ケンブリッジヒストリー・オブ・チャイナ』のために寄稿されたが出版されていないもので、今回このように公表される機会を得たことは、喜ばしい限りである。著者の貴族制に対する全体像が示されており、有意義である。

 第二部均田制は、 著者の修士論文を中心に、 その後の吐魯番文書の発見などによる均田制関連の論考を収録している。

〔未発表論文:修士論文〕

  第二章「唐代均田制の一考察」は、著者の修士論文(一九五六年三月修了)であり、百ページを超える雄篇である。まず敦煌の戸籍・手実類について、戸口記載(戸当たり数・男女比・戸当たり丁数・年令別分布・除附記載・戸等・課戸比率)を表を作って詳しく分析する。議論になっている女口の過多について、女口は出嫁・死亡などの際に除籍されないことがあり、男口は除籍しようと作偽されがちであったと論じ、中小男の脱漏傾向も認められるが、戸籍による丁男の把握はなおノーマルに機能しているとする。ついで受田記載について、西魏計帳様文書においては均田制が現実に施行されており、最低保障と税役徴収のための勧課との二面を読みとる。ついで唐代八世紀籍を分析し、已受田率は二〇~五〇%で、永業田の受田率が高く、さらに戸当たり已受田額は八世紀前半から後半にかけて増大している傾向を指摘する。新生児女を戸籍に付すことのできなくなった国家権力のもとで、均田制の名の下で異質の土地制度が展開していると述べている。

ついで吐魯番戸籍について、その断片を列挙し、うち東京国立博物館所蔵の開元四年籍については調査された釈文をのせる。ついでその給田制について、応受田額は狭郷の規定により、州県郭下に該当するとして、田令に則っていることを確認し、常田・部田などの田種注記と、一畝・二畝の給田区画の存在と歩単位までの克明な記載に注目し、受田記載の信憑性は高いとする。受田率は一二%弱で低いが、敦煌と異なり、田地の還授が実施されており、均田制の本性をそなえた側面を指摘する。ついで戸当たりの経営田額について、八世紀敦煌籍の已受田額は当時班給されたのでなく前代から保有耕作された田地であるが、平均額は六〇畝であり、これは当時の天下の標準額と大きな開きはないことを証明する。とすれば唐代均田制規定による戸当たり応受田額一頃四〇畝は、一般農家の必要額より大きく、理想的な上限額としての性格を有したとする。

また耕地一段の面積について六世紀半ばには五畝・一〇畝の区画による均田制施行は明らかで、その畝単位は八世紀まで存続したとする。一方で吐魯番や江南などでは、戸当たり経営田額は標準より遙かに少額であり、関中ないし華北の事情と異なることに留意している。最後に敦煌の歴史的背景を述べ、魏晋南北朝以来の豪族社会の中に、地方官による灌漑用渠の造営など国家権力が浸透していき、唐代における軍事的役割と東西交易の確保のための負担過重など、中原社会の状況との共通性を指摘する。西域系住民が聚居する従化郷はあるものの、他郷はほぼ漢人の社会であった。一方吐魯番では、高昌国を滅ぼし有力者を排除して唐朝権力が浸透し、七世紀半に施行された均田制は、田額の少ない割に徹底した性格をもち、こうした体制を比較のために有することは貴重だと本論文を結んでいる。

 附篇前半では、敦煌における九・一〇世紀の均田制以後の時代の土地制度を扱っている。附篇後半は、大谷文書のいわゆる物価文書断簡を接続復原し、唐代の物価について考察する。

  著者の論文スタイルは、最初に史料の校訂された録文と解釈があり、それをふまえて考察が展開される。

 そこには史料へのねばり強い執着と深い読解がある。今回、六〇年近く前に執筆された修士論文を読み、敦煌・吐魯番文献を扱うこと自体が困難だった時代に、これだけ史料を集め、積極的にデータをとって表を作って考察し、無味乾燥な戸籍・計帳の文面から敦煌社会の特色や変質をうかび上がらせていることに、深い尊崇の念を覚えた。著者が敦煌の均田制から中原のあり方を一般化して導き、また西州の特殊なあり方から高昌国以来の伝統の連続と唐律令制の尖鋭的な意図を読みとっていることは大きな貢献であろう。

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