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内閣文庫所蔵史籍叢刊 古代中世篇 4

内閣文庫所蔵史籍叢刊 古代中世篇

◎「内閣文庫所蔵史籍叢刊」古代中世篇④(三回配本)『除目抄』・『行類抄』刊行なる!

著者 石田 実洋 解題
小倉 慈司 解題
ジャンル 日本史
日本史 > 古代
日本史 > 中世
シリーズ 内閣文庫所蔵史籍叢刊
内閣文庫所蔵史籍叢刊 > 古代中世編
出版年月日 2012/11/15
ISBN 9784762943034
判型・ページ数 B5・526ページ
定価 22,000円(本体20,000円+税)
在庫 在庫あり
 

内容説明

『除目抄』

本書は二巻からなる除目関係書であるが、第一巻と第二巻とに内容上の関連は見出せない。いま仮に内題により、第一巻を「除目直物抄」、第二巻を「除目外記方抄」と称するが、両者に共通するのは、ともに中原氏(押小路家)に伝来し、近世前期に中原師定によって整理されていることくらいであろう。

「除目直物抄」は、第二十九紙(軸付紙)に記された師定による奥書によれば、「中家」すなわち中原家の伝本であり、その類本は本来数多く存在したのであろうが、寛永二十一年(一六四四)頃に残存が確認できていたのは僅かにこの一巻のみで、錯簡があったので順序を正し、裏打を施した上で成巻したものであるという。第二紙より第二十八紙からなる本紙部分の書写年次は特定できないが、恐らく室町時代の書写であろう。前後闕の残簡であるが、現存部分は、「夾与勘文成文可数合事」といった直物に関する事書を二十九項目にわたって掲げ、それぞれの後に勘物として直物に関する儀式書や記録の記事を引勘する形式となっている。その引用書目については、第一紙 (旧表紙見返し)の記載が参考になろう。

  ○直物抄記者之夾名

隆俊抄 経信記 匡房抄 日記    師時記 西宮抄 北山抄   続水心抄 斉光抄 経頼記

資仲抄 基綱抄 中右記      佐理抄 按抄  参議要抄  為隆記  本抄  清慎公記

師遠記

これも師定の筆跡とみられるが、ここに 匡房抄日記」とあるのに「匡房抄」・「匡房記」だけでなく「匡房問答」も、「中右記」とあるのに「中右次第」・「中右示送師時許状」も含めて考え、「清慎公記」とあるのは「清慎公伝」のことを指すとみてよければ、本文中に書名が明示されている勘物はほぼ網羅されていることになる。

「続水心抄」とあるのは、別名を『続水心記』ともいう『小右記』そのものとみることも可能であり、また、「按抄」とあるのは、洞院公賢の編んだ除目書『魚魯愚抄』に「故按察大納言」・「故按察大納言抄」等とみえる藤原宗俊の除目あるいは直物の次第のこととみられる。なお、第二十番目の項目「内記不候時令封叙位事」に「記者可勘入」と傍書して引用されている嘉承三年四月十四日条と、第二十五番目の項目「譲他人令下二省事」に「或記」として引勘されている嘉承三年四月十四日条とはともに『中右記』の記事であり、同じく「譲他人令下二省事」にみえる「按抄」がさらに引用する天暦十年三月十五日条は、内容から『九暦』の逸文(大日本古記録未収)と特定できる。ここで一つ疑問に思われるのは、「除目直物抄」の引用する勘物中に藤原忠親の編んだ『直物抄』がみえないことであるが、実は「除目直物抄」に引勘されている「参議要抄」が忠親編『直物抄』の現存部分にみえないことを除けば、両者の引用書目はほぼ重なる。特に、両者ともに「本抄」なるものを引用するのが気になるところであるが、「除目直物抄」の引勘する「本抄」と忠親編『直物抄』が引用する「本抄」とが同じ書を指すのか否か確定できない。忠親編『直物抄』は、本来は全六巻あったといい、現存するのは巻第一と巻第六の二巻のみであるが、もちろん断定はできないものの、本書は忠親編『直物抄』の巻第二から巻第五のうちの一部を書写したものである、あるいは同書から勘物を集めたものである、といったことも想定できるのではないだろうか。そのように考えた場合に問題となるのは、忠親が『参議要抄』を引勘することが可能であったか否かである。というのは、「除目直物抄」所引の「参議要抄」は現在流布している『参議要抄』と同じテキストとみてよいが、管見の限りでは、現在のところ『参議要抄』の成立時期は特定されていないからである。しかし、逆に『参議要抄』が忠親の没する以前に成立していたと考えるのに障害となる史料も存在しないようであるので、前述の想定のような試案を出しておきたい。

 次に「除目外記方抄」であるが、第二紙に記された中原師富による識語によれば、文明十二年(一四八〇) 三月の県召除目において申沙汰をするに当たって、師富自身が、愚昧の覚悟に備え、「当局」が殊に存知すべき条々を記したものであるという。全体にわたって紙背文書があるが、その年代からしても、また、慶安三年(一六五〇)に記された師定の奥書にいうように、この「除目外記方抄」は、師富自身による編纂原本とみてよいであろう。内容は、太政官外記局の上首たる大外記を世襲した局務家に属する師富が右のように述べているように、まさに「外記方」のための「除目抄」に相応しいものとなっている。さらにもう一つ注目すべきは、中原康富の息康顕の助力を得ていることであり、後半の勘例を集めた如き部分では、『康富記』からの引勘がかなりの数にのぼる。局務家における除目書としては、他に鎌倉時代中期頃に中原師弘によって編まれた『除秘抄』があるが、除目の際に用いられる多くの文書や筆記具などの取り扱いについて詳記されているところなどに、共通する特徴を見出すことができる。なお、『除秘抄』の写本としては、国立公文書館所蔵の『除秘抄』(一冊、古三―一八八)があるいは現存最古のものかと思われるが、これも「除目外記方抄」とほぼ同じ文明十二年頃の書写である可能性があり、師富の識語にみえる「除目外記方抄」作成の契機、すなわち、いわゆる応仁・文明の乱による文書類の紛失が契機となって書写されたものとみることができるかもしれない。

 

『行類抄』

室町時代の公洞院実煕(一四〇九~一四五九)による故実書。洞院家は藤原氏北家閑院流の一つ西園寺家の庶流で、鎌倉時代には後深草天皇・亀山天皇・伏見天皇の外戚となり、また公賢・公定など公事に明るい人物を輩出したことで知られる。実煕の父満季は『本朝皇胤紹運録』を編纂したことで著名であり、実煕もまた本書の他、『名目抄』や『蛙抄』などの著作がある。本書は諸写本によれば、次のような内容から成る(括弧内の斜字体部分は諸写本には記されず、前後の巻次より推して補ったもの。なお、この他に小朝拝について記す町広光の「広光抄」を付す写本もある)。

(一 恒例部(十一とする写本もあり)) 二孟平座 上 自諸着陣至着宜陽殿座 ……押小路家本③(巻子)

  二 恒例部(十二とする写本もあり) 二孟平座 中  自一献至四献      ……押小路家本②(巻子)

(三 恒例部) 二孟平座 () 見参目録事 自召文至下文           ……(押小路家本欠)

四 恒例部 節会   一 自諸着陣座至内弁触外弁事          ……押小路家本④(巻子)

五 恒例部 節会   二 外弁儀及少納言召              ……押小路家本⑤(巻子)

六 恒例部 節会   三 自南殿渡御至陣警蹕付入御     ……押小路家本⑥(巻子)⑦(冊子)

七 恒例部 節会   四 自押笏紙至敷尹                ……(押小路家本欠)

七下恒例部(八上とする写本もあり) 節会   五 自少納言就版至公昇殿 ……(押小路家本欠)

八下恒例部 節会   六 公昇殿及上官着座付軒廊出入間事階昇降事  ……(押小路家本欠)

九ヵ恒例部) 節会雑例 (首欠 扉に「節会七」と記す写本あり)        ……(押小路家本欠)

    臨時部 改元定                          ……押小路家本⑧(冊子)

    臨時部 遷幸   四  新宮事                    ……押小路家本①(巻子)

この他、現存せず散逸した巻もあったであろうし、また例えば遷幸第四の巻は首題が「行類抄巻第」となっていて総巻次が記されていないことなどから推測すると、そもそも本書自体が未完であった可能性が高い。ちなみに康正二年(一四五六)に甘露寺親長が記した臨時部遷幸四の奥書に「新作」と記されていることから実煕四〇代の著作と見られるが、その翌年四月に実煕は出家している。各巻はいずれもそれぞれの儀式の様々な先例について、日付を記し諸記録の記事を引用する。引用例は寛弘七年(一〇一〇)より応永二〇年(一四一三)にわたるが、大部分は院政期から南北朝期にかけてのものであり、なかでも『中右記』『山槐記』『園太暦』が多い。その他には『権記』『土右記』『大宮右府記』『師時記(長秋記)』『朝記』『宇槐記(台記)』『雅頼記』『坊槐記』『定長記』『猪隈関白記』『荒凉記』『師季記』『宗尚記』『妙槐記』『階相記(実雄公記)』『継塵記』『林中記(公衡公記)』『野内記(公清公記)』『康綱記』『忠光記』『良賢記』などが見える。『山槐記』等、実煕による諸記録抄出本が陽明文庫や国立歴史民俗博物館に現存しているが、本書の編纂とそうした記録抄出本の作成とは、あるいは関連があるのかも知れない。本書の実煕自筆原本の存在は現在確認されていない。現存写本の悉皆調査には至っていないが、管見の限り、古写本としては、恒例部二孟平座上・中について室町写(無奥書)の立命館大学西園寺文庫本(新井重行氏によれば、東北大学附属図書館狩野文庫にも二孟平座上の古写本があるとのこと)、臨時部改元定について押小路家本と同じ長禄元年奥書本を禁裏より借りて延徳元年(一四八九)に三条西実隆が書写した宮内庁書陵部所蔵三条西本が存在する(書陵部にはこの他に「行類鈔」の外題を持つ『江家次第』古写本が存する)。なお節会三(押小路家本⑥)は文明一一年(一四七九)暦を反故にして書写したものが流布本の祖本となっているようである。当写本は取合わせ本で、巻子本は奥書の無い第三巻も含め、寛文六年(一六六六)頃の書写と見られる(改元定の巻もかつては師定所持本が存在したらしく、その転写本が存在する)が、冊子本は二冊とも江戸中期の書写。第六巻と第七冊は同内容(節会三)であるが、第七冊で墨囲みの見せ消ちとなっている部分が第六巻では省かれ、本文末尾に「雖御物忌出御例」が追加されているなど、写本系統は異なっている(第七冊は草稿本の系統か)。この他の押小路家旧蔵本としては、江戸中後期写本一二冊が東京大学史料編纂所に存在する。

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