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アヘン戦争の起源

――黄爵滋と彼のネットワーク――

アヘン戦争の起源

◎アヘン戦争は何故勃発したのか、黄爵滋を通してアヘン戦争前夜の清朝社会の実態に迫る

著者 新村 容子
ジャンル 東洋史(アジア)
東洋史(アジア) > 明清
東洋史(アジア) > 近現代
出版年月日 2014/01/03
ISBN 9784762965128
判型・ページ数 A5・420ページ
定価 12,100円(本体11,000円+税)
在庫 在庫あり
 

目次

序 章 
本書の課題/本書の論点と構成/本書で用いる史料
第Ⅰ部 「黄爵滋ネットワーク」から「清流党」へ
第1章 「宣南詩社」に関する覚書
1.1960年代、楊国楨・謝国楨・謝正光の研究
2.1970~1990年代、中国における研究動向
3.1992年、Polachek James M.による新たな研究視角
4.2008年、魏泉による新たな研究視角
第2章 「黄爵滋ネットワーク」の形成――1826~1829年――
1.道光六年(1826)の黄爵滋主催の集会
2.道光七年(1827)と八年(1828)の黄爵滋主催の集会
3.道光九年(1829)三月二十八日「江亭雅集」
4.道光九年(1829)五月・六月の黄爵滋主催の集会

第3章 道光十年(1830)の3回の集会について
1.道光十年(1830)四月九日の「江亭雅集」
2.道光十年(1830)六月十三日、潘曾瑩主催の集会
3.道光十年(1830)九月十九日の「江亭雅集」
第4章  「黄爵滋ネットワーク」から「清流党」へ――1831~1834年――
1.連年の大水害と「黄爵滋ネットワーク」
2.黄爵滋主催の集会――1832~1834年――
3.黄爵滋上奏とその反響――「綜覈名実疏」を中心として――
第Ⅱ部 アヘン戦争と「黄爵滋ネットワーク」
第5章 道光十五年(1835)黄爵滋「敬陳六事疏」・「片奏」 について
1.道光十五年(1835)、北京における黄爵滋の名声
2.道光十五年(1835)九月九日の黄爵滋上奏――「敬陳六事疏」と「片奏」――
3.「敬陳六事疏」第6條・「片奏」の衝撃性
4.「黄爵滋ネットワーク」の情報と黄爵滋
第6章 「弛禁上奏」再論
1.許乃済「弛禁上奏」に関する先行研究と未解決の課題
2.「弛禁上奏」は呉蘭修「弭害」をいかに改訂しているか
3.阮元と「黄爵滋ネットワーク」
第7章 道光十六年(1836)四月四日「江亭展禊」について
1.道光十六年(1836)二月と三月の小集
2.道光十六年(1836)四月四日「江亭展禊」
3.道光十六年(1836)九月九日「重九修禊」
4.黄爵滋宛書簡と詩
5.道光十六年(1836)の黄爵滋上奏文
第8章 アヘン戦争前夜における清朝中央の政策決定過程
1.黄爵滋・許球・林則徐
2.「重典」政策と両広総督鄧廷楨(1836~1839年3月10日)
3.林則徐広東派遣の意味について
4.張際亮と林則徐
5.姚瑩情報と林則徐
第Ⅲ部 幕末日本人とアヘン戦争
第9章 塩谷宕陰 『阿芙蓉彙聞』 について
1.『阿芙蓉彙聞』叙について
2.『阿芙蓉彙聞』各巻の内容紹介
第10章 佐久間象山と魏源
 1.イギリスにいかに対抗するか――陸戦か海戦か――
2.共通する主張――西洋式鉄砲・軍艦の導入――
3.共通する主張――外国書の翻訳――
4.なぜ共感したのか
終 章 
  1.本書の議論のまとめ
  2.アヘン戦争前夜の清朝社会と「腐敗」批判キャンペーン
  3.林則徐の政策と「黄爵滋ネットワーク」
  4.イギリス艦隊の来訪と「黄爵滋ネットワーク」の人々
  5.当時の中国知識人はイギリス艦隊来訪をどのように認識していたか

注/文献目録/英文要旨/あとがき/索 引

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内容説明

【本書より】(抜粋)

本書の書名『アヘン戦争の起源――黄爵滋と彼のネットワーク――』には、Chang Hsin-paoの古典的 著作Commissioner Lin and the Opium  War[Chang 1964]に対するアンチテーゼとしての意味が込められている。アヘン戦争を理解するために重要な人物は林則徐ではなく黄爵滋であり、清朝の政策決定過程における黄爵滋と彼のネットワークの役割を考察せずして、林則徐広東派遣に至る中国の動きを理解することはできない、というのが本書を通じて私が主張したいことである。

 林則徐に焦点をあててアヘン戦争を考える時に必ずぶつかる最大の困難は、林則徐は広東に派遣される1年前まで、アヘン密輸入問題を含む対外問題に、ほとんど関心を向けていなかったことである。道光十八年(1838)閏四月十日に、鴻臚寺黄爵滋が吸煙者を死刑にすることを提案した「請厳塞漏卮以培国本疏」を上奏し、同年五月初七日に湖広総督林則徐が黄爵滋への賛成上奏「籌議厳禁鴉片章程折」をおこなう。

林則徐がアヘン密輸入問題に積極的に関わるのはこれ以後である。黄爵滋の影響を受けてアヘン問題に関心を抱くようになったという理解もあり得る。おそらくそうであろう。しかし、それならば、黄爵滋と林則徐との交友関係はどうであったのか。「宣南詩社」において2人は交流していたという議論は実証的に成立し得ない。それでは2人はいかなる関係にあり、いかに連携していたのであろうか。この問題はいまだに未解決のままに残されている。

 従来のアヘン戦争研究における林則徐に対する高い評価は、アヘンは毒物であるという20世紀的前提から出発し、林則徐をイギリスの「侵略」への民族的抵抗の象徴とみなす中国の歴史認識を我々が受け入れてきたことに立脚している。中国の人々が、民族意識にもとづいて林則徐を評価することは、理解できる。

しかし、日本人である我々が中国の人々と民族意識を共有する必要はない。私たちは、アヘン戦争や林則徐を相対化してとらえることが可能な立場にある。9章で述べるように、アヘン戦争当時の日本の知識人塩谷宕陰は、当時において入手しうる限りの史料を参照しつつ冷静に林則徐を分析し、林則徐によるアヘ

ン没収ではなく林則徐がイギリス人に対して実行した「厳急酷刑」こそがアヘン戦争につながった、という理解をしている。私は、本書において、黄爵滋が立案し、林則徐が広東で実行したアヘン追放政策の過酷さに正面から向き合うことにする。

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