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卍山道白禅師 東林語録 訳注

卍山道白禅師 東林語録 訳注

曹洞宗中興の祖“卍山道白禅師”『東林語録』訳注なる-北部九州(福岡・博多)における禅師と人士の交流が明らかに

著者 「東林語録」研究会
ジャンル 仏教学
出版年月日 2014/11/10
ISBN 9784762995613
判型・ページ数 A5・666ページ
定価 8,800円(本体8,000円+税)
在庫 在庫あり
 

目次

【主要目次】
口 絵・序 文(梅田泰隆)・訳注凡例
訳注凡例
  ○底本には『東林語録』二巻(元禄十二〔一六九九〕己卯歳二月穀旦 京城銅駝坊書肆 上田正真蔵版)及
び『東林後録』二巻(宝永二年〔一七〇五〕序、京城書林 教業坊 林傳左衛門 銅駝坊 上田重左衛門
同等敬刻 本)を使用した。
○【校注】の校勘本には、『鷹峯卍山和尚広録』四十九巻(『曹洞宗全書』「語録二」昭和六年・曹洞宗
全書刊行会)を用いた。
○書き下し文には、全て振り仮名をふった。音読の漢字音については、古来、呉音・漢音・唐宋音が複雑
に入り混じっており、確定するのが難しい。よって、卍山がどの様に読んでいたのかも不明だが、原則
として、禅宗の単語については禅宗で使用されている慣用音を用い、その他、現在、一般に用いられて
いる熟語等については概ね現代的な読みを用い、確定しがたい場合には主に呉音を用いた。
『東林語録(前録)』
  序(湛堂超然撰)〔1〕
 上卷  小參〔2〕~〔17〕      茶話〔18〕~〔19〕     普說〔20〕
法語〔21〕~〔29〕      小佛事〔30〕~〔46〕    記〔47〕~〔51〕
下卷  眞贊〔52〕~〔63〕      銘〔64〕~〔65〕      雜著〔66〕~〔68〕
序跋〔69〕~〔71〕      文〔72〕~〔74〕      偈頌〔75〕~〔141〕
識語(元貞・隱之撰)〔142〕  跋(立花實山撰)〔143〕   附 西遊艸〔144〕~〔168〕
附 東歸艸〔169〕~〔186〕
『東林後録』
序(立花實山・三洲白龍撰)〔187〕~〔188〕
卷上  法語〔189〕~〔197〕     小佛事〔198〕~〔226〕   眞贊〔227〕~〔268〕
銘〔269〕~〔274〕      記〔275〕~〔281〕
卷下  記〔282〕~〔283〕      序〔284〕~〔296〕     跋〔297〕~〔299〕
    詩偈〔300〕~〔379〕     附 西遊艸〔380〕~〔403〕  題跋〔404〕 
〈語注〉 人名・地名(寺社名)・事項
解 説
博多の東林寺と卍山道白――『東林録』と宗統復古――(本多寛尚)
 (一)開山としての卍山招致   (二)卍山の著述と研究   (三)『東林録』の成立と背景
 (四)『東林録』の諸本     (五)『東林録』と『卍山広録』
 (六)『東林録』から読みとる卍山の官訴への動き
卍山道白を取り巻く人々と立花実山(松岡博和)
  1、立花家の出自
  2、黒田家家臣としての立花家
 (1)福岡藩内での立花氏の台頭  (2)実山らの幽閉  (3)実山の供養と家の再興
3、茶人としての実山
 (1)茶書『南方録』の成立    (2)茶道南坊流とその系譜
 付 録
Ⅰ 卍山関連の著述と論文資料  
Ⅱ 東林年表
後 跋(野口善敬)
 【索引】人名・地名(寺社名)・書名/【研究会参加者一覧】

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内容説明

『東林語録』は、前録二巻、後録二巻から成る、拙寺開山卍山道白禅師が東林寺に在住の折の法語・普説や堂、庵、寺記に、洛北の源光庵より来往の紀行文等を加え、元禄十二年(一六九九)と宝永七年(一七一〇)に刊行された語録であり、福岡藩黒田家家臣立花家、特に東林寺の開基立花実山をはじめとする福岡藩士および博多、北部九州における人的ネットワークを知る上での貴重な資料である。

【本書より】(抜粋)

日本の禅門は、江戸時代の前期に大きな転換期を迎える。その契機となったのは、中国からの新たな思潮の流入であった。中国の仏教は、明代中葉に衰退し、嘉靖年間(一五二一~一五六六)には戒壇が廃止されて見る影もなくなるが、その反動もあってか、万暦年間(一五七二~一六二〇)に大きな復興を遂げることになる。中でも禅宗は、江浙を中心にして、曹洞・臨済を問わず、数多くの名僧が出現し、教団の巨大化に伴う先鋭化した宗派意識の下で、清代初期に至るまで、活発な展開を見せた。その影響は、渡来僧や将来された書物を通して、日本にも大きな影響を与えることになる。特に「臨済正宗」の旗印の下、日本に渡来した隠元隆琦(一五九二~一六七三)とその門流の存在は、将軍家や諸大名の帰依もあり、絶大な影響を与えた。

その影響を顕著に受けたのは、隠元と法系を同じくする臨済宗であった。「不生禅」で知られる盤珪永琢(一六二二~一六九三)は隠元の法侄である道者超元(一六〇二~一六六二)に参じて大事を了畢したとされるし、妙心寺の元住持であった龍渓性潜(一六〇二~一六七〇)は法系を転換して隠元の法嗣となるなど、風に靡くかのように、日本臨済宗の禅僧たちは黄檗へと向かい、中国禅に手を染めることになるのである。

そして、曹洞宗も決して埒外ではいられなかった。この『東林語録』の著者である卍山道白禅師(一六三六~一七一五)も、若き日に宇治の黄檗山万福寺で隠元とその法嗣である木菴性瑫(一六一一~一六八四)に相見しているし、木菴の弟子、潮音道海(一六二八~一六九五)から黄檗への転派を勧められたことがあったと言われている。卍山禅師が活躍した時代、日本でも黄檗関係を中心に、数多くの禅宗関係の和刻本が出版されていた。禅僧の語録を在世中に出版することが、当時の中国禅門の流行であり、例えば隠元には大小四十三種類もの語録が存在している。隠元が妙心寺開山の関山慧玄(一二七七~一三六〇)に語録が無いことを聞いて、最初は関山を卑下したとされるのも、この様な状況があったからこそのことなのである。

こうした時代の中に在って出されたのが、卍山禅師の『東林語録』二巻・『東林後録』二巻であった。宗門の改革に挺身し、「復古老人」と自称した卍山禅師の語録であり、漢学の深い素養と、幅広い知識を備えた碩学ぶりを伺うことができるが、宗統復古などに直接関わる文章は、「解説」にも詳述されている通り、僅かに〔402〕「授覚道者偈并序」や〔66〕「東林寺日常規約」だけであり、それ以外に〔73〕「禅余誡語」など戒律の重視を説いた教示の文章が散見する程度である。『東林語録』で特筆すべきは、「復古」よりも、立花実山居士を始めとする、福岡・博多での人士との交流を示す資料と、二度の東林寺への来訪を機縁にして、北部九州を中心に各地を歴訪した際の事柄を記した詩文が数多く収載されていることであろう。これらの文章を通して当時の卍山禅師の行履が、禅師を取り巻く状況を含めて生き生きと甦るのである。

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